島津 家久(しまづ いえひさ、天文16年(1547年) - 天正15年6月5日(1587年7月10日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将。戦巧者であり、島津家における主要な合戦のほとんどに参加して活躍したが、豊臣家との和睦後に急死した。

大友 義鎮/大友 宗麟(おおとも よししげ/おおとも そうりん)は、戦国時代の武将。豊後の戦国大名、キリシタン大名である。大友氏第21代当主。宗麟の法号で知られている。
長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将で、長宗我部氏の世子。
十河 存保(そごう まさやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
島津忠隣(しまづただちか、永禄12年(1569年) - 天正15年4月17日(1587年5月24日))は、島津氏一門の戦国武将。父は薩州家当主・島津義虎、母は御平姫(島津義久長女)。
十河存之(そごう まさゆき、生年不詳 - 天正14年12月12日(1587年1月20日))は、安土桃山時代の武将。三好氏一門で十河一存の庶子。初名は存親、三好長則。官位は正八位上隼人佑。一存の養子となった存保の家老となる。存保より年上だったという。存保が織田信長に属するとこれに従い、土佐の長宗我部元親と戦った。信長の死後、長宗我部軍の猛攻を受けて存保が敗走すると同時に十河城の守備を任されていた存之も城を落とされて命からがら大坂へ逃れた。その後、存保が讃岐国十河3万石を領すると共に讃岐へ戻った。1586年(天正14年)、仙石秀久率いる豊臣軍に加わって豊後へ侵攻。同年12月12日、戸次川の戦いで討死した。
香川 親和(かがわ ちかかず)は、安土桃山時代の武将。
本山 親茂(貞茂)(もとやま ちかしげ(さだしげ)、1545年(天文14年)? - 1587年1月20日(天正14年12月12日))は、戦国時代の武将。最盛期土佐の国中部を支配した土佐七雄に数えられる本山氏の当主。本山茂辰の嫡男(母は長宗我部国親の娘で長宗我部元親の姉)。元の名を貞茂といい、長宗我部氏へ臣従後「親茂」と改名。太郎左衛門、将監。
志賀親度(しがちかのり、? - 天正15年(1587年))は戦国時代、安土桃山時代の武将。豊後大友氏の一族志賀氏の一派北志賀家当主。志賀親守の子で、志賀親次の父。別名としては親教、親慶、親孝、道益。民部大輔。
大村純忠(おおむらすみただ、天文2年(1533年) - 天正15年5月18日(1587年6月23日))は戦国時代のキリシタン大名である。実父は有馬晴純。有馬義貞の弟。洗礼名はバルトロメオ。長崎を開港。
宮原 景種(みやはら かげたね、永正12年(1515年) - 天正15年(1587年))は戦国・安土桃山時代の武将。島津氏家臣。兵庫頭のち筑前守。祖父は宮原景益、父は宮原景次。祖先は、島津忠国が子の友久の与力として付けた9人のうちの1人であるとされる。永禄10年(1567年)に菱刈氏攻略に参加。翌年は菱刈氏と相良氏の攻撃に際し、佐多久政に加勢すべく曾木城に入城、更に翌年には菱刈氏の大口城を攻める新納忠元に従い、羽月戸神尾の稲荷山に大野忠宗と共に伏兵、軍功をあげる。天正4年(1576年)の高原城攻略に功があり、景種は須木地頭に任じられる。天正6年(1578年)の耳川の戦いや同9年(1581年)の肥後葺北にも従軍、同11年(1583年)には肥後佐敷の地頭に任命される。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の際、肥後隈庄にて肥後国人衆に攻められ戦死する。
猿渡 信光(さるわたり のぶみつ、1534年(天文3年) - 1587年5月24日(天正15年4月17日))は、島津氏の家臣。猿渡信資の子。
頴娃 久虎(えい ひさとら、1558年(永禄元年) - 1587年(天正15年))は、島津氏の家臣。頴娃兼堅の子。
神子田正治(みこだ まさはる、? - 天正15年(1587年))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉古参の家臣で、通称半右衛門、又は半左衛門尉。姓は御子田とも。
里見 義頼(さとみ よしより、天文12年(1543年) - 天正15年10月26日(1587年11月26日)?)は安房の戦国大名。家系は清和源氏の一流 河内源氏の棟梁 源義家を祖とする新田氏の一門 里見氏。里見義弘の庶長子(弟説もあり)。正室は北条氏康の娘菊姫、側室は正木時茂の娘。里見義康・里見義高(上野国板鼻藩主)・正木時堯・奥平忠政室の父。官位は左馬頭・安房守・刑部大輔従五位下。初名は太郎、義継(よしつぐ)。大勢院殿勝岩泰英居士。
甲斐親英(かいちかひで、天文9年(1540年)? - 天正15年(1587年))は、肥後国人で阿蘇氏の家臣。甲斐親直(宗運)の嫡男。出家し宗立と号す。官位は相模守。
西園寺 公広(さいおんじ きんひろ)は、伊予の戦国大名。黒瀬城主。
奈多夫人(なだふじん、生年不詳 - 天正15年2月15日(1587年3月23日))は、戦国時代の人物。大友義鎮(宗麟)の正室である。大友義統・大友親家・大友親盛の母。奈多八幡宮の大宮司奈多鑑基の娘。
石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
吉川 元長(きっかわ もとなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
一萬田 鎮実(いちまだ しげざね、? - 天正15年(1587年))は戦国時代、安土桃山時代の武将。豊後大友氏の家臣。一萬田鑑実の子。
北条 綱成(ほうじょう つなしげ/つななり)は、戦国時代の武将。
細川 通薫(ほそかわ みちただ)は戦国時代の武将。細川氏の一族である備中守護家の後裔である。実父は細川晴国であり、叔父の細川通政の猶子となる。通重とも。下野守。
新発田 重家(しばた しげいえ、五十公野 治長(いじみの はるなが)、1547年(天文16年)? - 1587年11月25日(天正15年10月25日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。父は新発田綱貞、兄は新発田長敦、妹は色部長実の正室。源太。因幡守。
久松 俊勝(ひさまつ としかつ、大永6年(1526年) - 天正15年3月14日(1587年4月21日))は、戦国時代の武将。尾張国知多郡の坂部城(愛知県阿久比町卯坂)城主。初名は定俊及び長家(ながいえ)。徳川家康の生母・伝通院の再婚相手として知られる。本姓は菅原氏。佐渡守を称した。実父は「定義」とされている(『藩翰譜』1巻320項など)。『東照宮御実紀』巻二には、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝とある。
遠山 直景(とおやま なおかげ、生年不詳 - 天正15年(1587年)?)は小田原後北条氏(以降、北条氏と略す)の家臣。遠山政景の子。氏政、氏直の二代に仕える。左衛門大夫。右衛門大夫とも伝わる。
五十公野 信宗(いじみの のぶむね、生年不詳 - 天正15年(1587年))は戦国時代、安土桃山時代の武将。妻は新発田長敦・新発田重家の妹。道如斎。五十公野城城主。
安東 愛季(あんどう ちかすえ、1539年(天文8年) - 1587年10月2日(天正15年9月1日))は、出羽国の戦国大名。安東近季とも。檜山系安東氏の第八代当主。安東舜季の子。
姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな、天文9年(1540年) - 天正15年(1587年))は戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。姉小路良頼の長男。妻は斎藤道三の娘。別名、三木 自綱(みつぎよりつな)。他に光頼、自頼。飛騨姉小路氏の当主。左衛門佐、侍従、太宰大弐、左京大夫、大和守、大納言(自称)。
大関 清増(おおぜき きよます、永禄8年(1565年)-天正15年(1587年))は、安土桃山時代の武将。那須氏家臣大関氏の一族。下野国黒羽城城主。大関高増の次男。正室は大田原縄清の娘。美作守。