中坊公平(なかぼう こうへい、1929年8月2日 - )は、日本の元弁護士(廃業前は大阪弁護士会に所属)。元日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)特別顧問。 「平成の鬼平」と呼ばれた人物。
1942年 同志社中学入学。
1944年 同志社中学3年、学徒動員で尼崎市にある三菱電機・伊丹製作所に配属。16歳まで夜尿に悩まされる。
1947年 同志社大学の予科へ上がるも農作業に明け暮れ授業についていけなくなるが、学制改革により旧制の京都大学を受験出来る機会を得る。
1948年 同志社大学(新制)入学
1949年 同志社大学を退学し同志社外事専門学校編入。京都大学法学部に入学、しかし農業と受験に明け暮れていた中坊は学内で浮いた存在となる。
1952年 初の司法試験を受験するも不合格。
1953年 京都大学卒業、2度目の司法試験不合格。列車乗車時にヤミ米の摘発に遭う、ヤミ米を所持していると間違われて没収されかけた事に激怒「米を認めないなら麦も取れ」と持っていた麦を米にブチ撒けて公務執行妨害で検挙。
1954年 3回目にして司法試験合格、翌年に司法修習生となるも給料は全て自分の小遣い、父親を騙して無心と放蕩三昧の日々を送る。
1957年 2年間の司法修習生活を終え「イソ弁」(居候弁護士の意)に。遊び癖が抜けなくて遊蕩三昧、月末は困窮。
1959年2月 婚約時からあまり良い顔をしてなかった両親と嫁の仲がそぐわず、結婚を機会に家から離れ、冷蔵庫無し、TV無し、二間、台所、トイレ、洗濯機付の新居で新婚生活スタート。依存意識を断ち切る為に実家からの干渉は全て拒む。
1960年 事務所存亡の危機になるも町工場の債権処理の依頼を受け、自ら町工場に出向き工員と経営者を直接指導し仕事を手伝い工場再建のメドをつけ、債権者と話し合い和議に至る。これをきっかけに事務所に仕事がくるようになり現場主義に目覚める。
1962年 東京オリンピック開催に伴う東海道新幹線の高架敷設による立ち退き問題で京都にある小売市場の自治会役員が中坊の事務所を訪ねる。約20店の店子とその家族と共に補償問題が解決するまで工事を行わないよう(建前上は)実力行使も辞さない構えを取り、強行着工してきた場合には「男は一歩引いて、まずは女達に任せろ」と中坊が指示、店子達はその言葉を額面通り受けてしまい強行着工の連絡を受けて現場に駆けつけた中坊は、子供を背負った店子の女性達が重機に立ち向かう光景を見て真っ青になる。こうした運動の結果、国鉄(現JR)と直接交渉の場を得る。
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